規制の経済学
http://jin115.com/archives/51698504.html
この記事をちょっと読んで欲しい
さっと要約すると、「ゲームのやりすぎで読書の時間が減っているから、ゲームを法律で規制してゆきましょう」という物。
さて
これについて皆さんどう考えるんでしょうか?
まぁ2ちゃん的には
ゲームと読書の時間の増減に相関関係は無いみたいなことを言うのかな?
もしくは
オタクカルチャーのパッシングだ・・・とか
恐らく立教大学の学生なら
規制するべきだとか平気で言いそう
個人的な見解は
ゲーム時間と読書の時間には確かに相関関係が存在すると思うし、読書の方が将来性のある趣味であると思う。でも個人的にはやっぱりゲームも好きだから1日1時間みたいな拘束力は行使されたくない。
ってところ
で
この記事で何を言いたいのかというと
この人たちの主張はソコソコ正当性があるんだけれども(別に無くたって何の問題も無いけど)、それを実現させようとする方法が余りにもずさんだっていう事。
読書って言うのはあくまで趣味。ゲームも趣味。
この前提はまさにこの人たちの主張で成立させられている。そうでなければ読書の時間とゲームの時間を比較する意味は無い。
だって両方が同じ重要性を持っていないで、どちらかがどちらかを上回る重要性を持っていたら、そっちばかりに時間が費やされちゃうでしょ?
例えばゲームすることがまるで強制労働のように定められていたら、ゲームをぶっ潰して奴隷解放宣言をする以外に状況を変える方法は無い。
つまり、この状況はゲームと読書って言う同じ重要性を持った物2つの効用のバランスが崩れた状態にある。
まぁ本よりもゲームの方がより魅力的なコンテンツだって事。
だから若者はついつい読書をするよりも、サルのようにCivilizationとかCall of Dutyとかをやってしまうわけだ。
それでこの記事では法律でゲームを制限しちゃえばもっと読書の時間が増えると訴えている。
ぶっぶー
まったくもってそうはなりません
こういうのって法律勉強した人とかは陥りやすい傾向があるよね
まずゲームを制限したら、若者達はゲームの次に魅力的な趣味に没頭するだろうね。
さて読書は何番目に魅力的なんでしょうねぇ?最近のティンエージゃーとかと喋ってるととても2番になるとは思えないんだけども。
そして法律って言うのは1か0かという状況は簡潔に作り出す事ができる。
例えば小学校なんかで問題が起きたら、問題が起きないようなルールをクラスで作って学級委員がそれを守らせる。~してはいけない。っていった感じにね。
でも人の行動をコントロールするのは1か0だけではかなり難しい。というか不可能だろう。
クルーグマンが昔論文で使っていた、子守のクーポンの話なんかと似ていて、そういった人の消費活動の制御は経済学的な手法で行われるべきだ。
じゃぁ具体的にどーすんの?って言われたら
ゲームの値段を税金などを駆使して吊り上げる
補助金や価格改定などで読書の奨励をする
の2つ
もしこの人たちが言うようにゲームが社会に対して損失をこうむらせるような要素を持っているのならば、その損失を計算して値段に上乗せしてしまえば良い。
そうすればゲームの消費は減るし、その害悪が発生してもその分はすでに税金として社会に納められているから、社会にとっての損益はプラスマイナスゼロになる。
そして読書に社会的便益があるのならば、その便益分だけ税金を使って価格を下げるべきだ。それによって読書の量が増えて社会的に得る便益が増えて補助金分が相殺されるだろう。
もしこれをやってもゲームが読書よりも人気であるならば、読書は一般的な趣味としては現在の地位が適当だという事になるだろう。
読書は今後それを有益だと考える人がひっそりと楽しむ物になれば良い。
それでもなお読書を進めるのはエゴだって事になってしまう。
いや、まぁ読書は大事だと思うけどね?それでもゲームという楽しみを我慢してまでも得る必要のある利益が底にあるのかどうか?、はしっかりと確認しなければいけないところなのですよ。
だってやりたい事我慢して読書して不幸になったら元も子も無いわけでしょ?
もうちょっと突っ込んだ話をすれば、読書を楽しめるかどうかはどうしても頭の中身と関係が出てきてしまう。
例えば母国語の理解がおぼつかない人間が本読んだってそりゃぁ楽しくもなんともないわけでしょ?
でも文学の謎掛けもわかるような(僕は全くわからないw)人が本を読んだら楽しくてしょうがないわけ。(多分)
そう、だから本をゲームより楽しめる人数って言うのは世の中ではある程度限られている。
よって規制なんかやったって皆不幸になるだけだし
経済的な措置をとっても状況は大して変わらないと思うよ
この記事をちょっと読んで欲しい
さっと要約すると、「ゲームのやりすぎで読書の時間が減っているから、ゲームを法律で規制してゆきましょう」という物。
さて
これについて皆さんどう考えるんでしょうか?
まぁ2ちゃん的には
ゲームと読書の時間の増減に相関関係は無いみたいなことを言うのかな?
もしくは
オタクカルチャーのパッシングだ・・・とか
恐らく立教大学の学生なら
規制するべきだとか平気で言いそう
個人的な見解は
ゲーム時間と読書の時間には確かに相関関係が存在すると思うし、読書の方が将来性のある趣味であると思う。でも個人的にはやっぱりゲームも好きだから1日1時間みたいな拘束力は行使されたくない。
ってところ
で
この記事で何を言いたいのかというと
この人たちの主張はソコソコ正当性があるんだけれども(別に無くたって何の問題も無いけど)、それを実現させようとする方法が余りにもずさんだっていう事。
読書って言うのはあくまで趣味。ゲームも趣味。
この前提はまさにこの人たちの主張で成立させられている。そうでなければ読書の時間とゲームの時間を比較する意味は無い。
だって両方が同じ重要性を持っていないで、どちらかがどちらかを上回る重要性を持っていたら、そっちばかりに時間が費やされちゃうでしょ?
例えばゲームすることがまるで強制労働のように定められていたら、ゲームをぶっ潰して奴隷解放宣言をする以外に状況を変える方法は無い。
つまり、この状況はゲームと読書って言う同じ重要性を持った物2つの効用のバランスが崩れた状態にある。
まぁ本よりもゲームの方がより魅力的なコンテンツだって事。
だから若者はついつい読書をするよりも、サルのようにCivilizationとかCall of Dutyとかをやってしまうわけだ。
それでこの記事では法律でゲームを制限しちゃえばもっと読書の時間が増えると訴えている。
ぶっぶー
まったくもってそうはなりません
こういうのって法律勉強した人とかは陥りやすい傾向があるよね
まずゲームを制限したら、若者達はゲームの次に魅力的な趣味に没頭するだろうね。
さて読書は何番目に魅力的なんでしょうねぇ?最近のティンエージゃーとかと喋ってるととても2番になるとは思えないんだけども。
そして法律って言うのは1か0かという状況は簡潔に作り出す事ができる。
例えば小学校なんかで問題が起きたら、問題が起きないようなルールをクラスで作って学級委員がそれを守らせる。~してはいけない。っていった感じにね。
でも人の行動をコントロールするのは1か0だけではかなり難しい。というか不可能だろう。
クルーグマンが昔論文で使っていた、子守のクーポンの話なんかと似ていて、そういった人の消費活動の制御は経済学的な手法で行われるべきだ。
じゃぁ具体的にどーすんの?って言われたら
ゲームの値段を税金などを駆使して吊り上げる
補助金や価格改定などで読書の奨励をする
の2つ
もしこの人たちが言うようにゲームが社会に対して損失をこうむらせるような要素を持っているのならば、その損失を計算して値段に上乗せしてしまえば良い。
そうすればゲームの消費は減るし、その害悪が発生してもその分はすでに税金として社会に納められているから、社会にとっての損益はプラスマイナスゼロになる。
そして読書に社会的便益があるのならば、その便益分だけ税金を使って価格を下げるべきだ。それによって読書の量が増えて社会的に得る便益が増えて補助金分が相殺されるだろう。
もしこれをやってもゲームが読書よりも人気であるならば、読書は一般的な趣味としては現在の地位が適当だという事になるだろう。
読書は今後それを有益だと考える人がひっそりと楽しむ物になれば良い。
それでもなお読書を進めるのはエゴだって事になってしまう。
いや、まぁ読書は大事だと思うけどね?それでもゲームという楽しみを我慢してまでも得る必要のある利益が底にあるのかどうか?、はしっかりと確認しなければいけないところなのですよ。
だってやりたい事我慢して読書して不幸になったら元も子も無いわけでしょ?
もうちょっと突っ込んだ話をすれば、読書を楽しめるかどうかはどうしても頭の中身と関係が出てきてしまう。
例えば母国語の理解がおぼつかない人間が本読んだってそりゃぁ楽しくもなんともないわけでしょ?
でも文学の謎掛けもわかるような(僕は全くわからないw)人が本を読んだら楽しくてしょうがないわけ。(多分)
そう、だから本をゲームより楽しめる人数って言うのは世の中ではある程度限られている。
よって規制なんかやったって皆不幸になるだけだし
経済的な措置をとっても状況は大して変わらないと思うよ
2010-08-10 01:05
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