having a dynamics in static circumstances or maybe having a static condition in dynamic circumstances [世間話]
えっとね。だらだら思ってる事書いてるだけなので、特に読んでも楽しくないと思います。あしからず
何かに願書を出すとき、必ずwhyを突き詰めなければならない。
why?
なんで僕は経済学を好きなんだろう?
考えると自然とその問いはwhyからwhatへと移る。
経済学の何がそんなに面白いのだろう?
そしてその答えを僕はdynamicsにある事を見つける。
すると新たにwhyがまた出てくる。
多分何かの願書ではこのレベルの事に答える必要性は無いのだと思う。
けど、ちょっとした手がかりがあるかもしれないから考えてみた。
静的(static)とか動的(dynamic)とかって言葉を知る前から現実はdynamicな物だと思っていた。
周りを観る時には、現状ではなくて時間で変化した事を観るべきだと知っていた。
けれども、その考えを開けてみる相手がいなかったし多分同意も得られなかったと思う。
物事の捉え方に関して誰かに話を聞いてみても、大体は言葉遊びで自己矛盾を程度と価値観の違いで逃げる物ばかりだった。
初歩的な経済学と出会って理解したとき(単純なマクロモデルを理解するのに1年掛かったけどw)、モデルには逃げ場が無いという事と、そのモデルがデザインされた意図を達成していれば逃げる必要なんか無いという事を理解した。
ケイジアンモデルは国の経済の状況をシンプルに分析して、不況時にどうするか?とか、消費や投資や政府の予算がどのような影響を国の経済に与えるかと言う問いに良く答えることができた。
ただ、そのモデルは会計的な物に近く、最初のモデルということもあってstaticだった。
けどここにdynamicなモデルを知りたいと言う欲求があったかと言われると。。。どーなんだろ。
そしてアメリカへ交換留学した時に始めて経済成長モデルを習った。
でも、そのモデルの目的はsteady stateを見つける事であって、dynamicな流れの中にある一定の条件を持ったstaticな点を見つける事が目的だった。
あぁでも今思い返してみればdynamic equilibriumを扱ったのはこれが最初だったのかもしれない。
で、アメリカから帰って数ヶ月した所で福岡伸一の「生物と無生物の間」を読んだ。
多分今の興味はこの本に出会った事によって形成されている。
魚とかbioeconomic modelingとかに興味があるのは間違いなくこの本を読んだからだろう。
色々な事が書いてあったのだけれども、この本の中で二つの事に心を奪われたと思う。
1つは動的平行(dynamic equilibrium)のお話。生命は常に体を作っては自分で壊す事によって自身を保っているというのがその内容だったかと。
自分の体が動的に流れているのに、自分の存在は維持され続けている。その話がとても面白かった。
もう一つは鴨長明の方丈記の話。
方丈記の冒頭に
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 」
とあり、鴨長明が如何に生命の本質を捉えていたかという事が書かれていた。
完全に妄想なのだけれども、鴨長明はこの世の本質が動的な物であると考えたのだけれども、
この時代にはモデリングなんて物は存在しなかったので、このような言葉で書き記したのだと思う。
同じ時期に落語の中で「急水不流月」というこれもまた動的な平衡を表す禅の言葉を聞いた。
川の流れは急であるが、そこに移る月は流れる事は無い。
という言葉で、「移り変わる環境や世の中でも、自分の意志は流れずにいたいね」といった意味だったと思う。
これらの話は僕の頭の中に「時として詩人や作家が理論的な本質をその才覚のみによって見つけ出す事がある」という事を焼き付けた。
そして、頭の中にメッセージを強く焼き付けるという点において言葉はモデルを遥かに凌ぐ威力がある事を学んだ。
落語を飽きずに聞いているのはこういった経験があるからなのかも。
まぁ古典とか落語とかにハマってる一方で衝撃的な記事を読んだ。
http://cruel.org/krugman/evolutej.html
ポールクルーグマンが進化理論と経済学について話している物の邦訳。
正直言って記事の意味の半分も理解していなかったと思う。
多分今でも8割くらいの理解だと思う。(読み直してないけどw)
けれども、僕に取って大事なメッセージは進化論と経済学のモデルはとても似通っていて、ある場面に置いては同じだと言えるという事だった。(もし遺伝子の目的がその複製の数を最大化させる事だったとするなら、そのモデルは経済学における効用最大化と指して変わりのない物になるだろうという事)
この記事は「時にモデルは一般性を持っていて、分野間の共通性を明らかにしてくれる」という大事な事を教えてくれた。そしてその一般性を見つける事がとても楽しいという事も。
別に言葉もモデルも卓越して上手ではないけれども、両方上手に使えたら如何に楽しいだろうかと考えるとわくわくするね。
多分経済学を、特にモデルに拘って勉強する理由と、ブログを続ける理由ってここにあるんだろうね。
then why?
the answer is... just because of the shape of my utility function.
何かに願書を出すとき、必ずwhyを突き詰めなければならない。
why?
なんで僕は経済学を好きなんだろう?
考えると自然とその問いはwhyからwhatへと移る。
経済学の何がそんなに面白いのだろう?
そしてその答えを僕はdynamicsにある事を見つける。
すると新たにwhyがまた出てくる。
多分何かの願書ではこのレベルの事に答える必要性は無いのだと思う。
けど、ちょっとした手がかりがあるかもしれないから考えてみた。
静的(static)とか動的(dynamic)とかって言葉を知る前から現実はdynamicな物だと思っていた。
周りを観る時には、現状ではなくて時間で変化した事を観るべきだと知っていた。
けれども、その考えを開けてみる相手がいなかったし多分同意も得られなかったと思う。
物事の捉え方に関して誰かに話を聞いてみても、大体は言葉遊びで自己矛盾を程度と価値観の違いで逃げる物ばかりだった。
初歩的な経済学と出会って理解したとき(単純なマクロモデルを理解するのに1年掛かったけどw)、モデルには逃げ場が無いという事と、そのモデルがデザインされた意図を達成していれば逃げる必要なんか無いという事を理解した。
ケイジアンモデルは国の経済の状況をシンプルに分析して、不況時にどうするか?とか、消費や投資や政府の予算がどのような影響を国の経済に与えるかと言う問いに良く答えることができた。
ただ、そのモデルは会計的な物に近く、最初のモデルということもあってstaticだった。
けどここにdynamicなモデルを知りたいと言う欲求があったかと言われると。。。どーなんだろ。
そしてアメリカへ交換留学した時に始めて経済成長モデルを習った。
でも、そのモデルの目的はsteady stateを見つける事であって、dynamicな流れの中にある一定の条件を持ったstaticな点を見つける事が目的だった。
あぁでも今思い返してみればdynamic equilibriumを扱ったのはこれが最初だったのかもしれない。
で、アメリカから帰って数ヶ月した所で福岡伸一の「生物と無生物の間」を読んだ。
多分今の興味はこの本に出会った事によって形成されている。
魚とかbioeconomic modelingとかに興味があるのは間違いなくこの本を読んだからだろう。
色々な事が書いてあったのだけれども、この本の中で二つの事に心を奪われたと思う。
1つは動的平行(dynamic equilibrium)のお話。生命は常に体を作っては自分で壊す事によって自身を保っているというのがその内容だったかと。
自分の体が動的に流れているのに、自分の存在は維持され続けている。その話がとても面白かった。
もう一つは鴨長明の方丈記の話。
方丈記の冒頭に
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 」
とあり、鴨長明が如何に生命の本質を捉えていたかという事が書かれていた。
完全に妄想なのだけれども、鴨長明はこの世の本質が動的な物であると考えたのだけれども、
この時代にはモデリングなんて物は存在しなかったので、このような言葉で書き記したのだと思う。
同じ時期に落語の中で「急水不流月」というこれもまた動的な平衡を表す禅の言葉を聞いた。
川の流れは急であるが、そこに移る月は流れる事は無い。
という言葉で、「移り変わる環境や世の中でも、自分の意志は流れずにいたいね」といった意味だったと思う。
これらの話は僕の頭の中に「時として詩人や作家が理論的な本質をその才覚のみによって見つけ出す事がある」という事を焼き付けた。
そして、頭の中にメッセージを強く焼き付けるという点において言葉はモデルを遥かに凌ぐ威力がある事を学んだ。
落語を飽きずに聞いているのはこういった経験があるからなのかも。
まぁ古典とか落語とかにハマってる一方で衝撃的な記事を読んだ。
http://cruel.org/krugman/evolutej.html
ポールクルーグマンが進化理論と経済学について話している物の邦訳。
正直言って記事の意味の半分も理解していなかったと思う。
多分今でも8割くらいの理解だと思う。(読み直してないけどw)
けれども、僕に取って大事なメッセージは進化論と経済学のモデルはとても似通っていて、ある場面に置いては同じだと言えるという事だった。(もし遺伝子の目的がその複製の数を最大化させる事だったとするなら、そのモデルは経済学における効用最大化と指して変わりのない物になるだろうという事)
この記事は「時にモデルは一般性を持っていて、分野間の共通性を明らかにしてくれる」という大事な事を教えてくれた。そしてその一般性を見つける事がとても楽しいという事も。
別に言葉もモデルも卓越して上手ではないけれども、両方上手に使えたら如何に楽しいだろうかと考えるとわくわくするね。
多分経済学を、特にモデルに拘って勉強する理由と、ブログを続ける理由ってここにあるんだろうね。
then why?
the answer is... just because of the shape of my utility function.
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